大和川の歴史を学ぶ

2017.12.11.

文化財保全全国協議会全国委員 西田 孝司先生

大和川と洪水

 大和川とその支流は、奈良県や河内南部の山の聞を流れくだりながらたくさんの土や砂を運びます。

河内平野に入ると、土地のかたむきがゆるやかなために川の流れがおそくなり、また淀川によって流れがさまたげられることもあって、土や砂は川や池の底にたまし川の深さはだんだん浅くなっていきました。そのため川の水があぶれださないように堤防も長く高くきずかれるようになりました。こうしたことのくりかえしで、江戸時代のはじめには、大和川下流の多くの川がまわりの土地よりも川底の高い天井川になりました。

 

 大和川の下流はこのように水の流れが悪く、河内平野を中心とする河内国では、むかしからたくさんの洪水がおこりました。そのたびに淀川との合流点の近くでは、川底の土を取りのぞいたり、新しい川を切り開くなど、水の流れをよくしようとしてきました。また山の土や砂が川に流れこまないように、上流で山の木を切らないように命令も出されました。それでもあふれだした水によって田畑や家が流される水害はなくなりませんでした。

 

 そこで今から350年ほど前に、河内平野でくらす農民の開で大和川の流れを大きくかえようとする運動がおこったのです。

 

付け替え工事その後 

 大和川のつけかえ工事で。深野池や新開池、それまで川が流れていた土地などは田畑に生まれかわりました。米の作りにくい土地には棉の木がたくさん植えられて、河内の木綿は全国的に有名になりました。こうした土地はつけかえ工事から5年後には約1,000ヘクタールにもなり、むかしからある古い土地(本田)に対して新田とよばれ、今でも○○新田という地名がのこっています。

 

 新しく川の開かれたところでは約270ヘクタールの土地が川底になりました。土地を失った人びとには代わりの土地が与えられましたが、住みなれた村から遠くはなれていたため、田畑をたがやすのにもたいへんで、多くの人びとが、土地をてばなしたり村からはなれていきました。

また狭山池から北に流れていた西除川・東除川は、新しい大和川によって流れをさまたげられたため、そのまわりの土地では水はけが悪くなり、水害になやまされるようになりました。

 このように大和川のつけかえ工事により、河内平野にくらす農民は水害をのがれ、木綿の原料になる棉の木をたくさん植えることができるようになりました。でもそのいっぽうで、大変な苦労をしなければならない人びとがいたこともわすれてはいけません。