2017年11月20日
山内啓子先生の「数学」から「数楽」へ
楽しい講義でした。
◇ 数学は数楽として考えると身近で興味が持てた。
◇ 何気なく使っている紙にはこんなにも色々な数学が潜んでいたとは!
A判、B判の不思議・紙の規格について調べよう
~数学は、現実の生活で生かされているのか?~
大阪教育大学、大阪工業大学、大阪市立大学理学部非常勤講師
「数学科教育法」専門の 山内 啓子先生
用紙サイズ
「縦:横=1:√2」となっており、どこまで半分にしても同じ形、相似形「∽」の長方形です。
0判を半分に切っていくごとにA0→A1→A2…の順に小さくなっています。短辺と長辺の比率は1:√2の関係です。
用紙A判・B判とは
A判は国際基準でドイツの物理学者オズワルド氏によって提案されたものです。現在一般的に使用されています。A0判の面積は1平方メートルです。
B判は「美濃判」の寸法がルーツとされる日本独自のサイズです。
御勝山古墳 つるの橋跡 生野コリアンタウンまち歩き
コリアタウン界わい
日本最大級のコリアンのまち。その原点は1600年前、「日本書紀」にも登場する古代朝鮮の百済から渡来した人たちが住む「猪飼野」でした。また、この地域は7000年前の縄文遺跡、1600年前の古墳、400年前の史跡など数々の歴史の舞台にもなっています。
まち歩き生野コリアンタウン
JR桃谷駅→御勝山古墳→西俊徳地蔵堂→木村権衛門屋敷跡→つるの橋跡→御幸森天神宮→生野コリアンタウンで解散
てんのうじ観光ボランティアガイド協議会の皆さま、ありがとうございました。
① 御勝山古墳
一説では中臣氏の祖・大小橋命の墓といわれています。古墳自体は5世紀前半に造られた南112m、東西55m、高さ8mの前方後円墳でしたが、現在は後円部だけが形を留め、前方部は道路(勝山通)と御勝山南公園になっています。
古墳はかっては「岡山」と呼ばれていましたが、大坂の陣で将軍一徳川秀忠が陣を置き、戦勝したことから「御勝山」と改められたと伝わります。
明治23年から大正15年(1890~1926)まで古墳を含む4万3千坪(約14万㎡)の広い地域に「大阪府
立農学校(現在の大阪府立大学)」がありました。農学校移転後、前方部が「大阪管区気象台」の敷地となりますが、勝山通による古墳の分断はその頃だと考えられています。
平成2年(1990)古墳周辺を調査の結果、大阪市最古とされる縄文時代早期末から前期初頭(紀元前5千年ごろ)の土器片が発見され、この付近は「勝山遺跡」と名付けられました。
② 西俊徳地蔵堂
俊徳丸が高安から四天王寺へ舞楽修行に通ったとき休憩した場所といい、お堂の前の道は俊徳街道と呼ばれています。堂内に安置された地蔵尊は等身大の座像石仏で、宝暦年間(1751~1763)の頃より祀られたと伝わります。お堂のすぐ西側は、俊徳街道・鶴橋街道・桑津街道が交差する交通の要衝でもありました。
③ つるのはし跡
日本書紀の仁徳天皇14年(5世紀)の条に「為橋於猪甘津号其処日小橋也(猪甘津に橋をわたす。すなわちその処を号けて小橋という)」と記されていて、これが架橋の記録としてわが国で最も古いものです。
高津宮から河内・大和方面への交通路をひらくため百済川(のちの平野川)に橋を架ける必要があり、数多くの渡来の人たちもこの橋を渡ったと推測されます。
「つるのはし」の名は、河内湖は葦が生い茂る湿地帯でよ<“鶴”が群れ集まったため、また、一説には”津の橋”から誂ったものともいわれています。
④ 御幸森天神宮
祭神は、少彦名命、仁徳天皇、忍坂彦命。 1600年程前の猪飼野は、河内湖を望む猪甘津とよばれた港で、百済の人たちが猪飼部(宮廷に献上する豚を飼育する官職)となって住まいしていたところです。伝承に依れば、高津宮から仁徳天皇が鷹狩や百済の人たちの様子を見聞するため幾度も行幸されたので「御幸の森」と呼ばれ、天皇崩御の後、406年に猪飼野の百済の人たちが天皇の御神霊を祀っだのが始まりです。
幣殿・拝殿・透塀が国の登録有形文化財。イニ徳天皇腰掛石、樹齢700年の椋の木、王仁博士の「難波津の歌」歌碑、徳川時代(1616年)旧平野川に設置された灯明台などがあります。
⑤ 御幸通商店街(通称一生野コリアタウン)
日本最大のコリアタウン。東西500mに、キムチ、テジミなどの定番の韓国グルメ、チマチョゴリの専門店、豚足や豚の頭も並ぶ精肉店など約120の店舗が軒を連ねる商店街です。
大正11年(1922)に大阪築港から済州島に定期船「君が代丸」が就航したことで済州島出身の人が多く、韓国伝統の帽子「モジヤ」を被る済州島の守り神「トルハルバン(石のお爺さん)」が置かれている店もあります。